2010年6月5日土曜日

デザインの装熟度

ファッションは個人の自由であり、自己表現の一つだ。また、そうでなくてはならないとの思いも強い。時代と世代、趣味とコミュニティ、気分とスタイル…どれも自分を中心に置いて考えることができるのだが、世界を見渡せば、それを許してもらえない社会があるのも現実。日本で暮らしている我々は、選択の自由を謳歌できる社会に属しているのだ。個人の表現としてのファッションは、人生の年輪に沿って成熟しつつ楽しむ…を基本と考えたい。

一方、自分のファッションは他人にとっての背景(環境)だ…という、とあるファッショデザイナーの方の言葉にも出合ったことがある。視点を向こう側に置いた見え方なのだか、この考え方は大いに共感できた。相手からみれば、自分越しに視界に捉えている街並みや通り過ぎる人々が、相手から見た世界の全て。自分は相手が主役の物語りに登場するキャストの一人である…という立ち位置から出た言葉だ。デザインを考えるスタンスとしてはもちろんだが、装う意識の中に留めたい感覚だ。

衣替えの6月。地下鉄のエスカレーターで、スーツにネクタイ姿の30歳前半と思われる女性とすれ違った。どこかのユニフォームかとも感じたが、デザインと仕立ての感じがそうではなかった。さり気なく洗練された自然な印象は、一瞬のすれ違いだったが素敵な余韻を残してくれた。

「デザインされない普通がいいんですよ…」というデザイナーに限って、スーツにネクタイという、ごく普通の装いでいる姿を見たことがない人もいる。そんなことが頭をよぎったが、日常的にビジネススーツの人ほど非日常を欲してるのかも…との思いもよぎった。「スーツの適齢期」という本では著者独自の哲学を表す言葉として「装熟度」という語を用いていたことも思い出した。「デザインの装熟度」…そう、そうなのだ。そういう言葉でデザインを語っていきたい…という思いが強くなってきている。 (テツタロウ)

0 件のコメント:

コメントを投稿